道草

日々の出来事と芸能とその他

上杉謙信の「敵に塩を送る」は商戦でも美談でもなかった?そこには今川氏真の策略が!

上杉謙信の「敵に塩を送る」は商戦でも美談でもなかった?そこには今川氏真の策略が!

牛つなぎ石と「敵に塩を送る」の伝説

「敵に塩を送る」という故事は上杉謙信(うえすぎけんしん)の美談として有名です。

松本市の繁華街、中央2丁目の交差点にこの故事の伝承地とされる「牛つなぎ石」が今でも残っています。

牛つなぎ石

「塩を送る」ことと「牛つなぎ石」が、どのように関係しているのでしょうか。

当時、糸魚川から送られた塩は千国街道を通って松本へ運ばれました。

永禄11年(1568年)1月12日、この「牛つなぎ石」のある場所に塩を積んだ牛車が着き、運んできた牛を休ませるために繋いだのがこの石であるとされているのです。

しかし実際は、この石は「道祖神」であり、江戸時代初期に松本の城下町ができた時に別の場所から移されてきたものだそうです。戦国時代にはまだなかったんですね。

この地は、江戸時代以降、毎年1月11日に塩の売り買いが行われる「塩市」が立つ場所でした。

この「塩市」の起こりが「上杉謙信が敵に塩を送った」ことであるという言い伝えから、この石が「牛つなぎ石」として言い伝えられるようになったそうです。

上杉謙信(Wikipediaより)

さて、この「敵に塩を送る」という故事、一般的には次のような内容で知られています。

武田信玄(たけだしんげん)は、桶狭間の戦いによって弱体化した今川家との同盟を破棄し、駿河への侵攻を企んでいました。

それを察知した今川氏真(いまがわうじざね)が、妻の父である北条氏康(ほうじょううじやす)と協力して取った対抗策が、塩の流通を止める「塩留め」でした。

領内に海を持たない武田家は、同盟国の今川・北条から塩を購入していたため、武田領の甲斐・信濃・上野の領民たちは困窮します。

 

「味方に欲しい大将よ」

これに対して救いの手を差しのべたのが、当時敵対していた上杉謙信でした。氏真は謙信にも協力を求めましたが、謙信は「正々堂々の戦ではなく卑怯な手段で領民をも苦しめるのは許しがたい」として、糸魚川から武田領へと塩を送り込んだと言われています。

この謙信の義侠心のある行為が、「敵に塩を送る」という美談と格言を生むことになりました。

しかし実際には、謙信は積極的に塩を贈呈・譲渡したわけではありません。

当時の史料によると、今川と北条が塩の輸出を禁止したのに対し、謙信は「私は塩留めには参加しない。だから、いくらでも越後から輸入するといい。決して高値にしないよう商人にも厳命する」と手紙を送ったそうです。

信玄とその重臣たちは感動し「味方に欲しい大将よ」と感嘆しました。

武田信玄(Wikipediaより)

つまり、謙信は無償で塩を大量に送ったわけではないのです。ただ高値で売りつけることもせず定価を厳守しただけです。では、なぜ謙信はそのような対応をしたのでしょうか?

実は、今川氏真が「塩留め」を行った本当の理由は、武田家領内の塩の値段を高騰させ、領民の怒りを上杉に向けさせて武田と上杉の和議を破談にすることだったのです。

 

策士・今川氏真

上杉家は、武田・北条・今川の三国同盟と対立して長年激戦を繰り返していましたが、謙信が担ぎ上げていた近衛前久が京都に遁走してしまい、関東で戦う意義を失っていました。

謙信は東国の戦争を終結させたいと考えていました。将軍就任を望み越前に滞在していた足利義昭も、彼らと和睦して上洛するよう謙信に要請していました。

この要請は三国同盟側にも伝えられており、これを好機とみた信玄は侵攻先を上杉領から弱体化した今川領に変更することを考えていたのです。

これに危機感を覚えた氏真は次のように考えたのです。

武田領内を塩不足に追い込めば、上杉領から信濃と上野の武田領に輸出されている塩の値段は高騰する。その結果、領民は、塩留めを実行させた氏真よりも、目の前で暴利を貪る商人とその背後にいる上杉を恨むことになるのではないか? そうすれば、長年敵対していた両家の関係は簡単に破綻するのではないか?

氏真、実はなかなかの策士だったのですね。

今川氏真(Wikipediaより)

謙信としては武田家と和平交渉を進めている最中で恨みを買うわけにもいきません。しかし今川や北条の機嫌も損ねたくないので、「信玄と合戦する気はあるが、経済戦争には加担しない」と断った上で塩の値段をコントロールしたのです。

この謙信の対応により、武田の領民は塩不足で苦しまずに済みました。「敵に塩を送る」の実態は商戦でも美談でもなく、謙信の綱渡り外交から生まれたものだったのです。

いずれにせよ、この謙信の対応により武田領内の領民が救われたのは間違いありません。

「牛つなぎ石」ひとつの由来を辿っていっても、こんな歴史的背景があるのです。

参照元:https://dailynewsonline.jp/